「人的資本経営」を単なるブームで終わらせないために

あと数年もしたら、給与は現金ではなく、全て勤め先の株式でもらうという時代になるかもしれない。国内の一部の大手企業が従業員向けに株式報酬制度を導入する企業が今、相次いでいる。

 新型の報酬制度の背景には、官民で進める「人的資本」の強化がある。従来の日本企業の終身雇用・年功序列・労使一体(企業内組合制度)の仕組みを見直し、企業におけるリスキリング(従業員の再教育)やジョブ型制度(専門職)、雇用の流動性(転職・中途採用)を強めることを狙う。国際化や先端技術に適応する人材を雇用・育成することは、日本企業の競争力向上につながる。日本の雇用慣行を大きく見直すことに伴い、従業員を資本と見なす「人的資本」という言葉も広がっている。

人的資本強化の流れに沿った策

株式連動報酬制度は大企業だけではなく、ベンチャー企業にも及ぶ。

 政府はスタートアップ企業についても、ストックオプション(自社株購入権)の導入を政策として後押ししている。文字通り、多くの従業員が株式(資本)を手にするわけで、社員のまま、個人株主にもなることを意味する。人的資本強化の流れに沿った策と言える。

 これまで日本企業は労使一体の経営により「人材を大切にしている」と標榜してきたが、気が付くと海外企業に大きく報酬でも企業価値でも差を付けられている。人的資本ブームの背景にはそんな危機感もある。

 実際に人的資本の充実はサステナビリティ経営に欠かせない。報酬やリスキリングにとどまらず、風通しの良い社風の維持やステークホルダー(利害関係者)への還元など企業経営の根本を支えるようになった。

 それを示す代表例は、顧客情報管理ソフトウエア大手、米セールスフォースの「1-1-1モデル」である。

 「1-1-1モデル」とは、売上高に占める製品の1%、発行済株式の1%、全従業員の就業時間の1%を活用して地域社会に貢献する仕組み。環境団体に寄付をしたり、自然保護のボランティアをしたり、教育プログラムを開催したりしている。1%といっても、1999年の創業から数えて、寄付をした団体の数は世界で2万7000、助成金は1億ドル(約140億円)、社員がボランティア活動に費やしてきた時間は110万時間に上る。競争が激しいハイテク業界において、成長だけを追わず社会貢献を掲げるのは共同創業者のマーク・ベニオフ会長兼CEO(最高経営責任者)の理念によるところが大きい。

 社会貢献だけではない。セールスフォースはダイバーシティ経営の先端企業でもある。米国企業でもいち早く、男性より低かった女性社員の給与是正を行い、16年には過去に遡り約300万ドル(約4億2000万円)を支払った。同社のイベントや製品の発表会で登壇する社員は男性や女性の比率を半々にするなど性別や人種に配慮している。ベニオフ氏自らが司会を務め、環境保護の重要性や女性エンジニア増加の施策などを話し合うこともある。ESGとダイバーシティを両輪としているのだ。

 サステナビリティ活動の充実は、同社の手厚い人的資本と相互補完関係にある。同社の会計報告書によると、付与するストックオプションの合計は6046万株(従業員7万9390人)で、単純計算で1人当たり761株となり、株価227ドル(2023年7月19日時点)を掛け合わせると約17万3000万ドル(約2400万円)にも上る。これだけの報酬制度があるからこそ、社員が定着して社会還元の仕組みを地道に継続できる。

 米国ではストックオプションを経営陣や従業員に加えて、ステークホルダーに付与する動きも出てきている。民泊大手の米エアビーアンドビーは920万株を部屋提供者に割り当てた。安定的な供給を目指すとともに「ホストの持続成長に役立ててもらう」(同社のブライアン・チェスキーCEO)という。人的資本の概念の広がりを示す事例と言える。

米大手コーヒチェーンがいち早くが導入

 一般に株式報酬は、米国の経営者を対象に導入されることが多かった。社長やCEOの役割は、企業価値と株価を高めること。そのため、株価を一定の水準まで高めたら権利をもらえるストックオプションが、経営者の主な収入となる例が多い。これをいち早く拡大して、従業員の収入増や働きがいにつなげたのが、コーヒーチェーンの米スターバックスである。

 実質的な創業者のハワード・シュルツ前CEOは1980年代からストックオプションの支給対象を従業員とアルバイトに広げている。シュルツ氏は家庭の事情で進学に苦労した体験から、アルバイトも長く仕事を続ければ、業績拡大に伴い多額の報酬をもらえる制度を整え、「アルバイトは時給。短期間で辞める」という労働概念を覆した。さらにCEOからアルバイトまでが同じ報酬体系を持つことで、「規模が拡大しても一体感を保つ社風」(シュルツ氏)をつくり上げた。

 日本では人的資本という言葉が定着段階にあるが、米国企業は既にパート社員から取引先まで巻き込み、経営に組み込んでいる。

米国では人的資本経営の難しさと厳しさが

もっとも人的資本の充実が全てを解決するわけではない。ここに人的資本経営の難しさと厳しさがある。

 その証拠に近年、従業員への報酬に手厚い米アマゾン・ドット・コムやスターバックス、米グーグルと親会社米アルファベットなどで続々と労働組合が結成されている。経営陣との対立する場面もあり、新たな課題となっている。なぜ人的資本に厚い企業で結成が相次いでいるのか。

 その背景には待遇改善要求があるが、加えて自社の気候変動対応強化やリモートワーク拡充などESGに関わる要求が多く含まれている。サステナビリティ経営の概念が広まることで、従業員も意識が強まっており、それが労働組合という形で顕在化している。

 実は、ESGという非財務概念と、人的資本という財務数値は、相いれないところがある。

 米国で最も影響力があるコラムニスト・作家の1人であるニューヨーク・タイムズ紙のデビッド・ブルックス氏は「人的資本」の意義を認めながらも「人間を資本と見なしていいのか」という根源的な問いかけをしている。企業の経営陣や従業員が気候変動対応や地球環境を考える「道徳心(人間性)」を重視する時代に、人材を「資本(経営資源)」扱いするのは矛盾するという主張である。

 つまり人的資本の定義と実践は広く深く、先端を走れば走るほど新しく大きな課題に直面することになる。

 日本企業を巡っては「人的資本」の開示が始まったばかり。労働時間や休暇制度などきめ細かい開示を増やす方向で、それは歓迎すべきことではある。しかし、その先には米国の巨大企業が経験する厳しい現実を直視すべきだろう。

 「人的資本経営」を単なるブームや開示情報の増加で終わらせないためには、自社の財務価値と非財務価値の定義と意義を、今から経営陣は真剣に考えなくてはならないだろう。

(「日経ESG」2023年10月号記事より)

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